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Ⅳ 紀行文

ロンドン便り(第1報)               (土試月報1978.12月号)
ロンドン便り(第2報)               (土試月報1979.2月号)
ロンドン便り(第3報)               (土試月報1979.4月号)
ロンドン便り(第4報)               (土試月報1979.7月号)
ロンドン便り(第5報)               (土試月報1979.10月号)
ロンドン見聞                 (「しけんじょ」No.15、1981.1)
スコットランドを走る          (コンサルタンツ北海道No.40、1983.6)
雨のオスロの物語                (HOPPOKEN、No.99、秋季号)
インドの印象                    (土試月報1987.3月号)
初めての中国                    (開土研月報1988.9月号)
サハリン事情                    (開土研月報1993.10月号)
三度目の中国                     (2000.11、ROMEC回覧文)

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三度目の中国

はじめに
 北海道開発局開発土木研究所が中国東北地方の寒地土木の実態と研究交流の可能性を探る調査を(社)北太平洋地域研究センター(NORPAC)に委託した。NORPACは、直ちに専門委員で構成する中国寒地技術に関する調査団の人選を進め、(財)北海道道路管理技術センター参与能登繁幸を団長とする調査団を結成し、中国東北地方へ派遣した。
 訪問先はハルビン、北京、瀋陽の行政機関、研究所であり、現地視察を交えて寒地土木に関する情報の交換を行った。以下に、調査団長として緊張の連続の中で垣間見た中国の道路事情を感想を交えて述べるものである。

1.中国の道路事情
 中国政府の開発政策は、これまでの沿海地域から西部地域に移行し、そこでの大規模インフラ整備を行おうとしている。中国の道路(公路という)は、5つの縦貫道、7つの横断道が幹線で、全長135.2万km。高速道路は約10万kmで、現在まで1.1万kmが完成。新規開通は年間2,000km程度ということだが、これは日本の高速道路の年間供用開始距離の7倍くらいに相当する。国土も人口も日本の10倍だが、さすがに何でも10倍の中国という感じ。高速道路10万kmを2010年には完成させたいとしているが、どうなるか。
 9月15日に錦州と瀋陽との高速道路200kmが供用開始され、これにより北京-瀋陽間の高速道路(約660km)が全面開通した。従来12時間もかかっていたのに僅か5.5時間になったらしい。制限速度は車種に応じて100~120km/hだが、ベンツは200km/hで走っているとか。ちなみに高速道路の料金は0.5元/kmという。
 とにかく道路建設はここ数年で数倍にのびており、これに伴い、貨物輸送が鉄道から自動車へと移っている。1997年の貨物輸送量は、鉄道が13%、道路が76%、水路等が9%となっている。
 道路の建設・維持費に重量税を徴収して充てていたが、中国人の多くは車の取得時に支払うだけで、本来毎年支払うべきものがなかなか徴収できないでいる。そこで、近々日本のようにガソリン税として徴収する方式にするそうだ。

 北京を訪問したのは今回で3回目。15年ほど前は車は僅かで、天安門広場はほとんど自転車の洪水だったが、今や市内の中心部は東京並の車社会。各所で渋滞が見られる一方、北京の環状線が整備され、交差部が全て立体となって流れもスムーズ。今4番目の環状線工事が進められている。
 ハルビン市内もかなりの車。しかし人も車も交通ルールを守らない。いつでもどこでも人は自由に横断するし、車も先に鼻を入れたものの勝ち。そこで、歩行者の自由横断と車の勝手気ままなUターンを阻止するため、大きな通りの中央部にコンクリート製や鉄製の分離柵を設けた。これで交通ルールがかなり守られるようになったが、中には背丈ほどの柵を越えていく人もまだ見かけた。赤(青)に変わるまであと何秒という数字が表示されている信号機が各所にあった。イライラの解消になるかも知れない。
 一方瀋陽では、自動車台数は30万台、自転車は250万台で、まだまだ自転車社会。街は自転車であふれている。今まだそれほど渋滞はないが、人口600万人の多くが車を持つようになったら、と思うと、先行きがかなり心配。

 高速道路の場合、9月15日から翌年4月中旬までの間、アスファルト敷設工事は禁止だという。ただし、県道などでは11月くらいまで工事を行うこともあるらしい。これほど厳しい品質管理なら、さぞかし道路も立派だと思う。事実、各地で見た工事現場の路床も路盤も極めて堅固であったし、アスファルト舗装の出来具合も何ら日本と変わらないできばえであった。しかし、市内の舗装路面にかなりのクラックが見られ、歩道にいたっては凹凸が激しく、何度もつまずく有様である。郊外部の国道も、これが国道かというばかりの激しい凹凸が見られた場所もあった。見たところいずれも凍上による損傷と思われた。何故急いで補修しないのかと尋ねたところ、昔は泥濘化して走行も歩行すらもままならなかった、これでも今は十分走れる、とのことだった。

 北京、瀋陽では市内の道路の拡幅工事が目立った。拡幅予定地では古い煉瓦造りの住宅が大規模に壊され、瓦礫の山が延々と続く。用地補償について尋ねると、中国では土地は全て国のもの、問題はないとのこと。住民に使用権があり、その補償として、移転費用や新築費用、さらに若干の上乗せをして立ち退いてもらうらしい。中には苦情を申し立て、裁判に持ち込む人もいる。裁判になると住民がほとんど勝訴する、が、立ち退きが破棄されたり、補償費用を余計に払うこともなく、淡々と工事が進められるという。つまりは、「あなたの言うことはもっともだ。しかし、これもそれもお国のためなのだ」で済んでいるらしい。ホントならうらやましい限りだ。国土が広いことも幸いしているかも知れない。

2.中国の人たち
(1)宴とカンペイ
 寒い地方の人々は、いずこも同じ、心温まる歓迎をするものだ。ハルビンでは昼も夜もたっぷり歓待された。小さなグラスに白酒(パイチュウ)を注ぎ、ホスト役の人の挨拶とカンペイで宴が始まる。アルコール36度。思わずウーッと声が出る。一息ついで、料理を一口食べた頃、ホスト役の部下が立ち上がり、挨拶をしてまたカンペイとなる。次にはこちらからも挨拶とカンペイ。かくしてテーブルを囲んだ人が次々と繰り返す。全部飲み干したことを示すためにグラスを逆さまにしてみせる。一巡した頃に、「男だと思う人だけカンペイ!」などとやりだす。負けてたまるかと思わずカンペイ!。記憶に寄れば、最大16杯を飲み干した。頭はしっかりしているが、足が…。
 基本的にはグラスをカチンとさせるが、遠くの人はグラスが届かない。そこでテーブルにグラスをトントンと打つのだ。これを、インターネットカンペイというのだという。
 北京でもカンペイはある。ただし、全部飲み干すことができないときは、スイ(随意)と言ってカンペイすればよい。いわば好きなだけ、ということ。これで随分助かった。
 とにかく料理の数がすごい。次々と料理が載った皿が運ばれる。ついには皿の上に皿、その上にまた皿、と積み上げる。食べ残すことが礼儀だという。仮に、一皿を全部食べきると同じ料理が届くという。日本では宴会の残飯として捨てる料理が年間3兆円を超えるというが、さすが何でも10倍の中国かも知れない。ちなみに、残飯はほとんど豚の餌になるという。

(2)街頭にて
 最初に中国を訪れたときに驚いたのは、どこでも彼処でも道ばたにしゃがみ込んでいる人のいかに多いことか、だった。それが今回はほとんど見られない。表通りが近代化し、おしゃれをした人々が、東京のようにせわしなく歩いている。近代化とは、ゆったりとした時間を奪うことなのかも知れない。それでも、一歩裏道にはいると、道ばたにしゃがみ込む老人が結構いて、昔ながらの空気がまだ残ってはいた。
 中国では朝食を露店で済ますと聞いていた。朝方、道ばたの露店では湯気をモウモウと立ち上げて、麺類などの朝食を提供していた、はずだ。しかし、市内の民家が取り壊されて高層アパートになり、台所が完備されるようになり、家族で一緒に朝食をとれるようになったらしい。バイタリティを感じたあの湯気の中の朝食風景が見られなくなったのは淋しい。
 初期に造られた高層アパートは、まだ20年ばかり経過しただけなのに、壁の色がはげ落ち、窓ガラスが破れ、まるでスラム街のような様相だ。シャワーとトイレが兼用で、大きな穴を跨いでシャワーを浴びる、というのが近代化の証でもあった。最近のアパートはさらに進歩してシャワーとトイレは仕切られるようになったし、壁にびっしりクーラーの冷却施設が設置されている。次第に貧富の格差が広がっていると見た。

(3)給料
 中国の平均的な月給は千元程度らしい。日本円で1万3千円くらい。現地視察の工事現場で聞いた日雇い労働者の日給は1日30元。中国西部地方の田舎では、野良仕事を一生懸命に行って1日15元程度という。したがって、地方から都会に、かなりの数の出稼ぎが押し寄せている。工事現場ではどう見ても中学生くらいの年齢の子供が働いていた。聞けば、年齢を偽って働いているとか。まだまだ義務教育が完全に行われていないという。稼いで田舎に仕送りするのだという。

(4)そのほか
 会議中に何度も携帯電話が鳴る。誰もそれを咎めはしない。会議中に人前で大きなあくびをする。失礼な奴だ、と思っていたら、会議中だけでなく、現場への案内中も大きなあくび。ホテルでフットマッサージをお願いしたときも、足をもみながら大きなあくび。中国では人前のあくびが失礼ではないのかも知れない。日本の礼儀が必ずしも中国で通用するとな限らないのだ。

 タクシーの運転席は透明なアクリル版で仕切られていたり、金網が張ってある。お金を渡す小さな窓はついている。日本以上に物騒なのかも知れない。
 
 ホテルのトイレはシャワレットまでは入っていないが西洋スタイルで、何らの不自由はない。観光地のトイレも腰の高さくらいの仕切がついてほぼ問題はない。しかし、少しばかり裏道や田舎の公衆便所に行くと、穴がいくつか並んでいるだけで、日本人にはとうてい用が足せない状態。それでもトイレ事情は随分よくなった。女性陣でも安心して中国に観光旅行ができるようになったと感じた。

 ハルビン市内から郊外の工事現場に行く際のこと。公用車に乗った。渋滞の市内を、ハザードランプを点滅させ、警笛を鳴らし続け、ときには反対車線を突っ走り、交通整理のお巡りさんの横を猛スピードで通り抜け、そこのけそこのけとばかりに車は走った。誰もが道を空けるのが不思議でもあったが、いつものことらしい。まだ、政府の役人はかなり偉いのだ、ということを実感させられた。

サハリン事情

はじめに
 「現在、環日本海あるいは環オホーツク経済交流圏などの構想が打ち出され、わが北海道は北方圏における寒地技術の拠点として期待されているところであります。」という格調高い書き出しで、サハリンに行ってみようかと、北海道土木技術会土質基礎研究委員会ならびに北海道技術士センター会員に案内を出した。たちまち30名近い希望者があった。そこで、平成5年8月24日(火)から29日(日)までの5泊6日サハリンツアーと相成った。

出発まで
 バブルがはじけて台所が苦しくなったのか、はたまた北海道南西沖地震で忙しくなったのか、旅行手続きを進めているうちに数人の辞退があり、最終的に22名の参加者となった。ゼネコン数名、資材メーカー数名、コンサル関係10名などで、旅費はほとんど会社持ち。役人は自分一人だけで、こっちは私費。正式名称は「サハリン土木技術事情調査団」。サハリン州政府や道路公団、研究所を訪問するほか、ユジノサハリンスク(豊原)、ホルムスク(真岡)、コルサコフ(大泊)などの社会基盤整備状況、道路事情を視察する予定。
 出発直前、旅行会社からファックスが入った。望ましい携行品のリストがある。「スリッパ、雨具、フィルム、常用薬、…」。フンフンと見ていくうちに「トイレットペーパー、石けん、非常食(カップ麺など)、ウイスキー、ミネラルウォータ、…」とある。オイオイ、俺たちゃどこへ行くんだぁ、極地探検隊じゃないんだぞぉ。といぶかしく思っているところへ、折良く添乗員で美人の中川女史が挨拶に来た。聞けば、いずれもつい最近までのロシア旅行者の必需品の数々とか。少しは事情が違っているかも知れないと言うが、こりゃー大変なところへ行くもんだと、早くも胃が痛くなる。

入国まで
 8月24日、早朝7時10分、丘珠空港集合。携行品リストを律儀に守って、それだけでトランクの半分が埋まったという人多数。また、300円程度のパンストや百円ライターを山ほど持っている人もいる。いったい何に使うのかアヤシイ。
 丘珠から函館へ。出入国に際しての注意を受け、最後かも知れない冷えたビールで気勢を上げ、仮設の税関と出国審査を通り、11時40分、チャーター便がテイクオフ。いつもろくな機内食が出ないという中川女史の忠告で、各自カニメシ弁当を持参し、機内でパクついているところへ立派な機内食が届いてブーイング。外は雲で何にも見えない。飛行約1時間でユジノサハリンスク空港に到着。時差は3時間。現地時間は午後の3時に近い。乗客は130人ほど。なのに入国審査官は女性2名。これが何をやってんのか、1人当たり2~3分掛かるものだから、全員が入国審査と税関を抜けて出るまでに、何と2時間以上も掛かったのである。

サハリンの概要
 サハリン州は、ロシア最大の島サハリン島のほか、クリル(千島)、モネロン、チュレニなどの島を含む。サハリン島は南北に約950km、東西の幅は最大で160km、最小は27kmであり、面積はほぼ北海道に近い。人口は約70万人で、州都ユジノサハリンスクに17万人。
 平均的月収は4~5万ルーブル。現在レートは10ルーブル=1円だから、日本円に換算すれば月収4~5千円(ただし、ロシア人の感覚では4~5万円らしい)。昨年の初めは1ルーブル=1円、暮れには4ルーブル=1円だったから、もの凄い円高なのである。

公式訪問
 背広にネクタイで州政府を訪問した。運輸局長のベロノソフ氏が出迎え、予期せぬことに団長として彼と一緒に壇上に上げさせられた。彼は何度か日本を訪れていて、見るからにしたたかな態度、話しぶり。そのうちにTVカメラまで入ってきたのには驚いた。その夜、現地のTVに放映されたという。
 日本の道路公団に近い「アフトロード」にも訪問。プリネック局長ほか3名の職員と質疑応答。不機嫌な態度でニコリともしないのは民族性の違いなのだろうか。さらに土質調査所「ダリチシズ」を訪問。親日的なペツコフ技師長らと意見交換。
 これらの公式訪問で得た情報は以下の通り。
 サハリンの道路延長は2,200km、その3/4が南サハリン(旧日本統治領)にある。舗装率はわずかに12%で州都ユジノサハリンスクに限っていえば85%。自動車台数は85,000台で、その25%が日本車。ユジノに限れば70%が日本車だとか。部品の不足、修理工場が少ないのが悩み。
 地盤の凍結深さは143cm。舗装路面も春先には破壊を生ずることが多い。泥炭層は平均的に5m程度。軟弱地盤対策は置換工法とプレロード工法が主体。いろいろな対策工法があることは知っているが、今後検討する(お金がないのだ)。橋梁の総延長は約50km。M9の地震を考慮した耐震設計を行っている(M9はマグニチュードではなく、ロシア震度階だろう)。
 懸案の道路事業としては、北サハリンのノグリカからオハまでの道路建設、ユジノからコルサコフまでの有料高速道路の建設、ユジノからホルムスクに至る峠部分の改良などである。1987年6月に国営企業法が公布され、どの企業も自立することになった。建設業者は20社程度あるが、入札制度は始まったばかり。(南サハリンから北サハリンのノグリカまではかろうじて1本の道路でつながっているが、そこからオハ近くまでの150km間は道路が全くない。)

この目で見た社会基盤の状況
 どの街も緑が多い。大きな通りに面した建物はすべて4~5階建てで、高さがほぼ一定。しかも箱形。派手なネオンも広告塔も看板もない。しからばきれいで美しいかといえば、そうでもない。全体に古ぼけた感じであり、活気が感じられない。車道の舗装路面はかなり傷んでいるし、排水施設がない。少しの雨でも路面が滞水し、車が凄まじい水しぶきを上げて走っている。舗装道路は少ないからドロが持ち込まれ、それが歩道の各所に溜まってヘドロ状態となっている。
 郊外に出ると、雑草の中に建設中なのか放置された廃屋なのか分からない住宅がポツポツ見える。車道の舗装路面が次第にガタガタになり、ついには砂利道となる。ホロムスクの海岸道路ではコンクリート版を敷き並べた舗装道路があったが、継ぎ目ごとにガタンゴトンで、まことにもって走行性が悪い。橋はかなり老朽化している。橋の歩道は人ひとりがやっと通れるくらいの幅しかない。トナイチャ湖の河口に架かる橋は、欄干が壊れ、歩道の床版は穴が空いて鋼板で補修してあった。
 切り土は植生が施されておらず、裸のままである。たまたま出くわした路面処理工事箇所では、セメント混合処理を行っていたが、適当にセメントを混ぜて敷き均していた。これでソイルセメントができるのか疑問であった。

サハリンの生活事情
 南サハリンは、日露戦争から第二次大戦まで日本の領土であった。日本統治時代の建物は今も残っており、当時の樺太博物館は郷土史博物館として、拓殖銀行は美術館として現在も立派に利用されている。郊外に出れば、今にも崩れんばかりの日本風家屋にまだ人が住んでいる。
 現地通訳は、年金生活をしている親日的な朝鮮人の李さんである。日本統治時代に自主的にサハリンに移住したという。通訳の際に頻繁に「ロスケ」を連発する。日本人はヤポンスキー、ロシア人はロスキーというのだから、ロスケといっても軽蔑用語ではないという。けれど、言葉の端はしにロシア人を快く思っていない様子がうかがわれ、ロシア人に差別されてきた恨みがにじみ出ている。
 戦前、日本及び朝鮮半島から多くの朝鮮人がサハリンに強制連行され、その大多数は終戦後も残留を余儀なくされた。それらの方々は、今でも日本語を話す。現地の人々のナマの生活に触れようと自由市場へ行った。自家製の生野菜や惣菜、生活用品、肉や魚、洋服や毛皮などが並べられている。それらを売っている人の半分ほどが朝鮮人のオバさんである。我々が通りかかると、懐かしそうに日本語で話しかけてくる。みんな気さくないい人ばかりで、思わずトマトを買い、ブドウを買い、肉まんを買ってしまった。
 どこに行っても英語はほとんど通じない。キオスクや国営デパートでの我々の買い物は、欲しいものを指差して、ダッ、ダッ(YES)とかニェット(NO)と叫ぶ。品数も豊富で、物不足の感じはない。ホロムスクで運良くタラバガニを見つけた。みんなで食べようと10kg買った。たったの3,000円。一人当たり150円でたらふく食った。国営デパートでは1kg150円のばら売りチョコをおみやげに2kg買った。何人もが我も我もと買ったものだから、ついに売り切れた。

サハリンのホテル事情
 宿泊したホテルは「サハリンサッポロ」。合弁契約で問題を起こし世間を騒がしたところ。支配人は日本人の宮西さん。この方、札幌刑務所面接委員だの、日赤飛行隊札幌支隊長だの、札幌青色申告連合会長だの、まぁ凄い(うさん臭い)肩書きを持っており、「すすきのブルース」も作曲したという。ホテルの食堂で総額3,000円のカニパーティをしているときに挨拶に来て、苦労話や自慢話、ロシア人気質からマフィア、女の話まで、長々と演説していった。ともかく、この人の努力でホテル経営がガラリと変わったことは確かのようだ。
 サハリンのホテル事情についての噂は聞いていた。ゴルフボールを持っていけ、バスタブの栓がないから。お湯が出るときに溜めておけ、お湯が出るのは希だから。痔が悪化しないように注意しろ、トイレットペーパーが油紙に近いから。その他いろいろ聞かされていた。だから、割り当てられた部屋に入って、まずは点検から始まった。幸か不幸かバスタブがなく、一畳ほどの広さのところに栓のない洗面台、トイレ、カーテンの仕切がないシャワーがあった。トイレットペーパーは日本のものと変わらない。電気のスイッチを入れ、冷蔵庫の作動も確認した。ほぼ問題がなかった。しかし、これは奇跡に近いことを後で知った。
 一夜明けての朝食時、各部屋の状況が明らかになった。電気がつかない、お湯が出ない、トイレの水が流れない、トイレットペーパーが無い、冷蔵庫が動かない、テレビが映らない、鍵がなかなか開かない…。添乗員の中川女史は、それらをすべてメモして出ていった。それからまもなく、ホテル内を数名の作業員が走り回っていた。その夜、ほとんどの問題は解消されていた。やればできるじゃないか。
 サハリンサッポロは1泊2万円くらいするらしい。最近、ユジノ郊外に日本との合弁企業による「サハリン初の国際クラスのホテル」と謳ったサンタ・リゾートホテルがオープンした。これも見学してきたが、すべてが超一流。値段も超一流。サハリン住民の給料を考えれば、宿泊は絶望的。ロシア国民と貧乏旅行者は、スキーヤーズベッドのような格安のインツーリストホテルを利用するしかないようだ。

食事とトイレット
 昼食、夕食は市内各所のレストランでとった。明らかに外見からレストランであると分かるのは希で、何気ないビルの一角だったり、倉庫ふうの建物だったり。これでは我々日本人には探せないだろう。食事は昼食が一日のメインで、もの凄いボリュームの食事が出てくる。甘ったるいジュースと前菜だけで満腹のところにスープが出て、魚のフライや肉のメインディッシュが出る。最後は砂糖がドッサリ入った香りのないコーヒーか、お茶。食事の前にまずビールという希望が多かったが、そのビールにありついたのはたったの一軒だけ。しかもぬるい。やむなくウォッカとワイン、あげくはコニャックだから、昼間からもうメロメロ。
 食べたからには出さねばならない。だがサハリンのトイレは凄まじい。入国審査に2時間もかかって飛び込んだ空港のトイレは、探す必要もなかった。はるか彼方からニオイがしてきたからだ。扉が半分壊れ、数年は掃除をしていないような汚さで、水は出ない。ホテルのトイレはまあまあだったが、換気扇がないから臭いが充満し、部屋にも漏れだしてくる。街の高級レストランでは、男女別の印がなかったり、ロシア語の略字だったりで、どちらに入ればよいのか分からない。エイヤッと入ったら、やっぱり女性用だった。幸い誰もいなくて騒ぎにならなかったが、ついでに見回すと、床はぬるぬるし、便器の便座が無くて、トイレットペーパーもない。後で中川女史に聞いたところでは、なるべくホテルの外では利用しないことにしているが、やむを得ない場合には、お尻を浮かせて用をたすんだとか。ホロムスクのレストランのトイレはやや綺麗だったが、小の便器の位置が高くて、中には爪先立って必死に用をたした者もいた。
 ロシアの二十歳前後の女性はやたら綺麗だが、トイレはやたら汚い、というのが全員の一致した意見であった。

サハリンの夜の事情
 夜の街に歓楽街はない。2・3のホテルのバーや日本食レストランの地下にあるクラブなどに出かけてはサハリンの夜を味わった。サハリンサッポロの地下にもクラブがある。着いたその日にこのクラブに出かけた元気な二人組がいた。飲んで騒いで一人頭1万2千円ほど取られたらしい。それでも文句を言わないどころか、また次の晩も行くと言い出す。よほどイイところらしい。そこで我ら数人は、例の宮西さんと直接交渉して5,000円ポッキリにしてもらった。ロシア人の給料の一月分だから暴利に近いが、日本的感覚では適当な値段だ。何せ、超ベッピンのロシア人ホステスが1対1でお相手してくれるのものだから、つい二晩も行ってしまった。英語も日本語もダメという環境の中で、カラオケとダンスが主体だが、体臭にはクラクラした。駅の横のホテルにある食堂兼バーに大勢で行ったときは、たまたま現地の若い娘たちがパーティをしていた。この娘らに積極的にアプローチを繰り返し、勇猛果敢に立ち振る舞う同行の方々には、日本人企業戦士の神髄を見せられた思いで、ホントに感心した。

おわりに
 野生が息づく自然の宝庫、サハリン。といえば聞こえはイイが、裏を返せば開発が遅れているサハリン。わずか稚内から40kmの彼方は、40年は遅れているという印象を持った。ガガーリンを飛ばした国だから、技術力は相当に高いかも知れないが、何せ先立つものがない。アフトロードにて、技術的にいま何が問題かと尋ねたら、問題は技術以前の経済力だという返事が返ってきた。州政府を訪問した折りには、カウボーイは積極的なアプローチをしてくるが、サムライは慎重すぎると皮肉を言われた。
 ともあれ、わざわざトランクの半分を埋めて持っていったウイスキー、珍味、カップ麺などの非常食にはほとんど手をつける暇が無く、結局は、通訳の李さんと陽気なバス運転手に、全部置いてきた。
 帰路、函館上空では乱気流に巻き込まれてダッチロールの恐怖と、凄まじいエアポケットで宇宙遊泳の気分をプレゼントされた。空港着陸と同時に拍手拍手。入国審査と税関を抜けるや、ラーメンと冷えた生ビール。やっぱり日本が一番だとみんなが満足。そしてまたぞろ、次はどこへ行こうかの相談が始まった。

初めての中国

 8月7日(日)から8月16日までの10日間、中華人民共和国黒竜江省ハルビン市で開催されたISCORD'88「寒地開発に関する国際シンポジウム」に参加する機会を得た。以下に2・3の街に立ち寄って感じた中国の印象について紹介する。

1.市内の様相
 北京の街は今、大改造中である。レンガ積みの古い平屋の家が次々に解体され、高層アパートに生まれ変わりつつある。街の半分は工事中という有様である。自転車の数は想像を絶するばかりで、車道一杯に銀輪が走る。車はそんなに多くはない。天安門広場はとにかく人、人、人。一体どこからこんなに湧いてくるのかと呆れてしまう。
 ハルビンはロシア人が造った街。他の都市と比べていかにもロシア風の荘厳でどっしりした建物が目につく。ここでも自転車の数は大変なものであるが、北京ほどではない。広い車道は外側一車線が自転車用として仕切られている。しかし、やや狭い道路では車と自転車が混在で走っており、見た目には非常に危険に感じるが、どちらも運転技術に優れているようで、かなりのスピードで走る割には事故が少ないようである。その代わり、やたらとクラクションを鳴らすため、街中が極めて騒々しい。平日であるのに街中に人があふれ、公園や過半に家族連れがウジャウジャいる。聞けば、勤務先ごとに休日が異なっているためとのことである。
 西安は唐の都長安であり、長いこと中国の都であった。街全体がおっとりとして静かであり、古い建物が各所に見られる。古い街は高さ20mほどの城壁でぐるりと囲まれており、東西南北に大きな出入り口の門がある。街から小一時間ばかりのところに秦の始皇帝陵や兵馬俑、玄宗皇帝と楊貴妃が愛の日々を送ったという華清池などがあり、また市内には玄奘三蔵法師がインドから持ち帰った教典を翻訳した場所として有名な大雁塔、論語その他の有名な文章を石に刻んだ碑林、阿倍仲麻呂の記念碑などがある。ここはシルクロードの出発点でもあり、映画「敦煌」ですっかり有名になった莫高窟へ出かけるらしい日本人観光客がたくさん見られた。
 上海は、しばらくの間イギリスやアメリカの租界地であったため、ヨーロッパ的な建物群が表面(黄浦江に面したあたり)に立ち並ぶ。しかし一歩下町にはいると様相は異なり、「夜霧のブルース」で歌われたかつての四馬路(スーマールー)と呼ばれるあたりには2・3階建ての古い建物が延々と続き、昔の遊郭の雰囲気が残っている。夜ともなれば夕食を終えた人々が一斉に外にでるらしく、まるで祭りの縁日のような大混雑ブリである。
 いずこの街もトロリーバスが走っており、運転手は決まって女性であった。連結バスはいつも超満員で、警笛を鳴らしっぱなしで走っている。ボンネットを開けて修理中という車が多い。中国の運転手は整備工も兼ねているという。つい最近まで、運転手は高給取りであった。

2.中華料理
 当然ながら毎日の食事は中華料理であった。ただし、ハルビンでの朝食だけはパンとコーヒーに目玉焼きというスタイルであった。コーヒーと一緒にミルクらしきものがでたが、これが昔懐かし脱脂粉乳である。最初のうちは喉を通らなかったが、2・3日後には全部飲み干すまでに至った。生水が飲めないから、ジャスミン茶を良く飲み、食事の際はビールをがぶ飲みした。
 中華料理は地域によって味が異なり、ハルビンは脂っこく、西安は辛いものが多く、上海ではあっさりしていた。料理は例の円形テーブルに次々と載せられる。全部食べきらない(食べきれない)うちに次の料理が出てきて、前の料理皿の上にレンガ積みのごとく重ねて行く。食器は皿1枚とスープ用の茶碗が1個だけの場合が多い。たった1枚の皿ですべての料理を食べる。骨などの食べかすは皿の端に積み上げることになるが、いずれ皿が食べかすで満杯になる。しかし皿は1枚である。どうすればよいか。簡単である。皿の外にどんどん押しやる(こぼす)か、テーブルの外へ落とすのだそうである。これが日本人にはできない。新しい皿を要求する。レセプションでは、確かに皿の外へどんどん押しやる中国人を見かけたが、テーブルの外に捨てたのは見なかった。外国人の前なので遠慮したというのがもっぱらの噂である。
 ハルビン以外の街での朝食にはお粥が出た。ハルビンで5日間を過ごしてきたツアーご一行は、中華料理にかなり飽きてきていた時期でもあり、このお粥は好評であった。加えて、日本から梅干し、ふりかけ、ウニの塩辛、筋子などを持参していた奇特な人が何人かいて、朝食時にそれらを円形テーブルに並べたから大変である。何杯もお粥だけのお代わりを頼む人が続出で、チャイナドレスのウエイトレスを呆れさせることになった。
 中国旅行4日目あたりでツアー一行の大半が下痢症状となった。ハルビン滞在中の早い時期に症状が出た人は、人民軍の美人女医に腹を撫でられたとかで翌日には元気になったが、ハルビンを離れて、やや遅れて症状が出た人は(私を含めて)、持参の下痢止め薬を飲み、正露丸を飲み、それでもいっこうに良くならない。万里の長城に行った際には、おそるおそる城壁を歩き始めたものの、途中で引き返してトイレに飛び込むという無様な経験をした(長城自体にはトイレがないのでご注意)。また、北京ダックを目の前にして生唾で我慢したりで、情けない2・3日が続いた。レセプションで食べたレモンの漬け物が悪かったという噂である。
 成田におりて小一時間の余裕があり、それぞれ自由行動となったが、行き着くところは誰しも同じレストランで、よく冷えたビールをクイッと一気に飲み干し、ザルソバを気持ちよさそうにツルツル音を立てながら食べたのである。しばらくは中華料理を食べる気がしない。

3.トイレ
 中国のトイレの噂は行く前に聞いていた。ホテルは超一流だから各部屋のトイレは洋式の立派なモノである。問題は市中のトイレだ。中国では元々各戸に便所を持つ習慣がなく、基本的に共同便所を使用するらしい。街中至る所に公衆便所がある。女のほうは見てないからよく分からないが、男のほうは、小はコンクリート製の樋状のミゾがあるタイプで、これは日本の田舎の観光地の公衆便所で今でも見かけることがある。大のほうが問題で、高級なものは腰の高さまでの仕切があり、前面も一応扉がついている。万里の長城の登り口にあるのはこのタイプだ。外人客が多いためだろう。市中の公園などにある公衆便所では、高さが50cmくらいの横の仕切はあるが前面に扉はない。やや郊外の公衆便所では、この横の仕切もない。タダ穴が並んでいるだけだ。果たして、小はともかく大をする度胸はあるか。
 ある日本人男性が、我慢できずに公衆便所に駆け込んだが、ずらりとしゃがんで用をたしている現場を見た途端飛び出してきた。またある人は、何と傘を持参し、それを広げてすっぽり傘に隠れて用をたしてきたという。とにかくこれは文化の違いなのだと割り切ろうとするが、体がついてこないのだ。これこそまさしく「尻込み」なのだ。

4.余暇
 いずこの国も同じようで、中国でもお年寄りは早起きである。朝の散歩に出ると、公園や空き地でいろんなことをしているお年寄りの姿を見ることができる。ジョギング、水泳、太極拳、そして最近流行りだという老人ディスコ。ディスコといっても若者のそれとは違って、一定のリズムで手や足をブラブラさせたり、首や腰を振っているだけである。もちろん音楽はない。これが集団でやっていると、まるで新興宗教の踊りのようで少しばかり気味が悪い。ゲートボールも盛んらしく、各地で見かけた。2・3年前に中国に入ってきた新しいスポーツなのだという。
 昼間、人の集まる場所では、ミカン箱を重ねただけの店からリヤカーを改造した屋台まで、さまざまな出店が開かれている。アイスキャンデー、オレンジジュース、タバコ、お茶、スイカにトマト、ゆで卵にパンなどである。また、国営の写真屋が大勢いて、「彩色撮影」「上午照下午取」の看板を立てている。これが見てると結構忙しい。そんな店に混じって日本の縁日で見かける輪投げや射的、スマートボールなどのゲームもある。詰め碁には黒山の人だかりで、岡目八目でやんやと騒いでいる。
 ホテルのテレビはカラーで、ハルビンでは八路軍の活劇ドラマらしいのを放映していたし、北京では「ロッキー・4」などの新作ビデオを流していた。ところが、夜の街で黒山の人だかりがあちこちにあり、それを覗くと、これが白黒テレビを観ているのだった。昭和30年代、夜ともなるとテレビを買った金持ちの家に隣近所して押し掛け、チラチラしてろくに見えもしない力道山の空手チョップを観た記憶がある。中国は日本より30年遅れているというが、ホントかも知れないと思った。国民の平均的給料が100元(約3,700円)で自転車が200元するという。テレビがいくらするのか知らないが、高嶺の花であることに間違いはない。

5.時間
 日本を発つのが16:05のハズだった。これが2時間遅れて18:30に発ち、北京のホテルに入ったのは真夜中である。翌日10:10にハルビンに発つはずであった。これが突如変更になって12:30発という知らせが入り、更に2時間待たされて結局14:30、ソ連から30年前に購入したというプロペラ機のチャーター便でハルビンに飛んだ。ジェット機で1時間半のところを4時間もかかった。翌日のISCORD'88の開会式は16時のハズが、いつの間にか18時に変更されていた。ハルビンから北京に戻るときはほぼ時間通りであった。北京から西安に飛ぶのは18:15のハズだったが、早朝の8:00発に変わった。お陰で北京では万里の長城に行っただけで、故宮も胡同(フートン)も観ずに終わった。
 中華民航は、時間より生命を大事にするという。雨が降るとフライトを延期し、風が吹くとフライトを取りやめる。日本の航空会社は時間を大切にしすぎるのだろうか。ちなみに、空港ターミナルの待合室はすべて禁煙、国内線の飛行機もすべて禁煙。国内線の飛行機はシートがリクライニングにならず狭くて窮屈。スチュワーデスはまったく笑顔を見せず無口で、箱入りのオレンジジュース2個とほとんど甘みのないチョコレート1枚を客に投げてよこす。機内のクーラーはドライアイスでも使っているのか常に白い煙を吐き出している。成田から北京への飛行機では、天井から雨漏り?がした。
 上海から成田へは9:00発。この日ホテルは朝5時起床。5時半にトランク収集、6時にはバスでホテルを出発するはずだった。しかし、バスは定時に来ていない。10分経ち、20分経ち、ツアーの一行はイライラし始める。それを観た中国側遺行員が言った。「日本人、待つの苦手ネ。中国人、待つのは何でもないネ。日本人、時間通りでないとイライラするネ。中国人、時間に余裕がないとイライラするネ。」何てったって悠久の大地、四千年の歴史なのだ。

6.漢字
 市内至る所に、漢字で書かれた看板やスローガンが見られる。かなりの略字であるが、多分こうだろうと判読できる。市内では交通ルールを守ろうとか飲酒運転はするななどのスローガンが多い。公園では、果物の皮を捨てるな、つばや痰を吐くな、吸い殻を捨てるななどがやたらと目につく。裏を返せば、そのような行為が多いということであろう。水利科学研究所でスイカをごちそうになった。食べかすを捨てるところがなくて手に持ったままオロオロしていると、中国の人たちは空き地にポイ。それに従った。
 レセプションで隣に座った中国人は英語も日本語もダメ。しかし、字を書くとよく分かる。しかも彼らは字が上手い。こちらが沢山の料理ですねと書いたら、定かに覚えてはいないが「敢飲、敢食、敢穽」と書いてくれた(穽は落とし穴という意味)。昨年8月にわずか1週間だったが当研究室に研修に来ていた王さんにも逢うことができたが、その上司の謝さんは、ノトシェンシェイは「機知超人」だと書いてくれた。何かよく分からんが褒められたことは確からしい。

7.ジーベン
 日本あるいは日本人のことを中国人はジーベンと呼ぶ。これがマルコ・ポーロの「東方見聞録」で日本がジパングといわれ、現在のJapanとなったらしい。中国人から見たジーベンは大変な金持ちである。何十万円ものキャッシュを身につけて、自分らの給料の何倍もする毛皮や絨毯、置物をポンポンと買っていく。観光地では日本人と見ると片言の日本語で「5コでイチエン(37円)、ヤスイネー!」と叫んで寄ってくる。端渓のスズリだの例の毛生え薬だのを手にして、バスの窓の下に寄ってくる。それほどうるさくはないが、いずれインドのようにしつこくつきまとう土産物売りになるに違いない。
 日本人をはじめとする外国人の買い物は政府直営の「友誼商店」に決まっている。ここでは兌換券しか使えないから、人民元しか持たない一般市民は出入りができない。友誼商店の品物は(現地の人が言うには)品質が保証されており、市中の商店よりは値段が高いという。高価な物は当然一般の店にはないので、良い品物を手に入れようとすると兌換券が必要になる。それで一般市民は兌換券をほしがる。街を散歩していると、兌換券と人民元を交換してくれないかと良く話しかけられる。どこかおかしくないか。国内で2種類のお金が使われているのだ。為替レートもおかしい。給料が100元で日本円に換算すればわずか4000円足らず、それで生活できるはずがない。今の中国は、1ドル360円時代の日本と同じなのだ。日本人オバチャン一行が、300~500元のカシミヤのセーターを何枚も抱えて、安い安いと大騒ぎしている横で、店員がニコリともせずにジッと見つめていたのが印象的であった。

おわりに
 会議期間中にあった中国の人たちは、どなたも大変親切であった。我々の目から見た中国の人たちは、決して裕福とはいえなかったが、公園や水辺ではしゃぎ回る家族の姿は幸福そのものであった。会議で得た技術的知見よりは、中国と中国人に接して得た見聞のほうがはるかに有意義であった気がする。広大な中国のごく一部を垣間見たに過ぎないが、中国の魅力を少しばかり理解できた気がする。機会があれば、正露丸を沢山抱えて、再度訪ねてみたいと考えている。

インドの印象

 昭和62年1月6日より9日までの4日間、インドのニューデリーでNCB国際集会が開催され、これに参加する機会を得た。会議の概要は別途報告済みであるので、以下にインド・ニューデリーの印象などを紹介する。

はじめに
 1月4日17時40分、アリタリヤ航空AZ708は成田空港を離陸し、途中香港に1時間ほど立ち寄り、インド・ニューデリー郊外にあるインディラ・ガンジー国際空港には現地時間1月5日午前2時過ぎ(日本時間5日朝5時半頃)に着陸した。飛行機の座席が高いのか、こちらの足が短いのか、飛行中は足の踵が十分床に着かなかったため、膝頭が少し痛い。空港に降りた途端、スパイシーなニオイが鼻を突き、インド到着の実感が湧く。入国審査、税関を通り抜けると、NCB事務局員が待ち受けており、何の花か知らないが極めてニオイの強い花で編んだレイを首にかけてくれる。両替に30分も並び、タクシーでタージ・マハール・ホテルへ行き、とりあえずベッドにゴロリ。

1.国のあらまし
 インドの面積は日本の約9倍、人口は約8億人。現在パキスタン領となっているモヘンジョダロを発祥地とするインダス文明が興ったのがBC2500年頃であり、歴史が古い。その後の歴史は、BC1500年頃にアーリア人の侵入、BC500年頃に古代統一国家の成立(ゴータマ・シッダルタ、いわゆるお釈迦様が活躍した頃)、AD11世紀にイスラム勢力が侵入、そしてムガール帝国の確立、1800年後半にはイギリスの属国、1947年独立。
 インド人の大部分はヒンズー教徒であり、今でもカースト制度が生きており、また、肉食や殺生の禁止、慈善、寛容が精神構造の中心を成しているという。気候は国が広大なためさまざまだが、主としてモンスーン気候であり、夏は40度を超える暑さとなるらしい。10~3月は日本の初夏のような快適な天気が続き、観光シーズンに最適であるという。

2.生活
 街で行き交う人の100人中99人は、服装が粗末でドロに汚れている。男性はとくに汚れの目立つ人が多い。女性はいくらかましな服を着ているが、サンダル履きの素足の汚れは驚くばかり。街の中心部はどことなくホコリっぽく、靴みがきの人がやたら目につく。服が汚れていても、靴だけは光っており、おまけに鏡を見てはすかさずクシを出して整髪する男が多いのはどんな思想によるものか。インド人の多くは、細く長い足でやせてスマートだが、その実態は栄養失調のように見えた。
 街の中の建物はどれも古く、壁が汚れ、はげ落ちている。一歩裏通りにはいると貧民窟の様相で、暇そうな人がウジャウジャいてジーッとこちらを眺めるから、恐ろしくなってつい早足になる。顔も服もドロンコの物乞いの子供たちが大勢たむろしていて、少しでも立ち止まったり、休憩しようとベンチに座ろうものなら、必ずや2~3人の子供が寄ってきて「1ルピー(約13円)頂だいヨ」と悲しそうに言う。しかし、可哀想にと1ルピーをあげた途端、遠くでそれを見ている子供たちがワーッと押し寄せてきて、身動きできなくなるという。
 市内各所にバザールという市場がある。東京上野のアメ横に似てしっかりした店が並ぶもの、札幌中島公園の祭りの出店のようにテント張りの店が並ぶものなど、さまざまである。バザールではありとあらゆる物が売られており、品物を売る人、買う人、運ぶ人でゴッタ返している。魚を売った汚れた手で髪をかき上げる人、豚の肉塊を背中に担いでいる人、生きたニワトリが金網の中で20羽ほどすし詰めにされ、それが10段も積まれていて、それを客の注文に応じて血まみれになって料理する人、その羽根を袋に詰める人、立ち小便中の人とラバ、のんびりコーヒーを飲む人、パンを食べる人、ケンカしている人、…。それらの光景が一度に視野に入ってくる。凄まじいばかりのバイタリティにカルチャーショックを受けた。戦後のヤミ市もこんなだったのだろうか。
 見た目にはビンボー人そのものなのに、暗さがない。カースト制度が根強く残っており、階層を越えることができないと言えば不自由な世界を連想するが、むしろ、各階層の中で甘んじて自由を楽しんでいるようだ。ガンバレば金持ちにもなれる日本のほうが辛そうな気がする。日本人の多くは中流意識を持っているというが、ヒョッとしてインド人の多くもあの生活状態で中流と考えているのかも知れない。
 インドの金持ちの家は郊外にある。周囲が緑に囲まれており、家屋敷は外から見えないほど敷地が広い。浮浪者が入り込まないように(かどうか知らぬが)、銃を担いだガードマンが数人、警備に当たっている。高級住宅地の周囲の道路は、早朝に粗末な服を身にまとった何人もの人が掃除を行っており、ゴミ一つ落ちていない。貧富の差を大いに感じる。金持ちの服装はきらびやかで、とくにサリーを着た女性は美しいが、金持ちの男性は飽食のためかでっぷり太った人が多い。

3.交通
 インドは日本と同じく左側通行。市民の足はオンボロのバストリキシャ、それに車体を黒と黄色に塗り分けたポンコツのタクシー。リキシャは日本語がなまったものらしく、自転車に人力車を付けたサイクル・リキシャ(オールド・デリーによく見られる)と、バイクと三輪車の中間のような幌付きのオート・リキシャがある。リキシャは車の中に、タクシーは外に一応メーターは付いているものの、しっかりメーターを倒すのは5人に一人ぐらいのもの。車に乗る前や降りるときに料金の交渉をするが、通常料金の2~3倍からセリが始まり、しつこく交渉しているうちに、通常料金の1割り増し程度で妥結となる。その間のやりとりは、最初は相当疲れたが、慣れると楽しくなってくる。
 タクシーにもリキシャにも灰皿が無く、吸い殻は窓からポイ、あるいは床にポイ。街の中心部には信号機があるが、車道はバス、リキシャ、タクシー、それに自転車に乗った人で溢れており、歩行者は信号無視でヒョイヒョイ無造作に横断するから、車のクラクションは鳴りっぱなしである。街中が極めて喧噪な雰囲気になっている。中心部から少し離れると交差点はほとんどラウンド・アバウト(いわゆるロータリー)になっており、進入や右左折の場合のルールはないのか、強引な運転手ほど早く走れるようである。運転技術は相当乱暴で、何度もヒヤッとした。
 デリー郊外をバスで走った。牛がのんびり道路を横断していたり、干し草を山と積んだ牛車が道路の半分も占めてゆったりと行進するなどの牧歌的景色もある。しかし、自分の乗ったオンボロバスは、車体のきしむ音と、どこか壊れているようなエンジンの音が車内に渦巻いている。対向車が来ても平気で追い越しをかけるからブレーキが何度もかかる。とても快適とはいい難い。

4.食事
 インドはカレー料理で有名だが、ビーフカレーだけはない。国民の大半が牛肉を食べないからだ。主食は、小麦粉を薄く延ばして焼いたチャパティか米をピラフ風に炒めたプラーオー。ホテルなどの高級レストランでは、激辛料理に*マークが付いている。それを一つトライしてみたが、最初はさほど辛くもない。やがてジワジワと口の中が燃えだし、舌も唇も腫れ上がった感じになる。ところが30分もするとケロリと治る。途中で水を飲むともっと辛さが増すという。もっとも、生水は間違いなく下痢を起こすというので、もっぱらミネラルウォーター、ビール、ワインなどで我慢した。こんな我慢なら大歓迎だ。アルコールといえば、宗教的理由で一部の州では禁酒のところもあるが、外国人は自由に飲める。ただし、毎月1日と7日、政府の公休日及び毎週日曜日はドライデーとして酒類の販売がないとか。ホテルのルームサービスだけはいつでもOKであったが。
 インド人には菜食主義者が多く、メニューはVeg.とNon Veg.に分かれている。レセプションのバイキング料理でも、別々のコーナーに分かれていた。食事は通常、数種類の料理を一枚の大皿に取って食べる。何度お代わりしてもよい。コーヒーは何杯飲んでも料金は同じ。満足するまで食べさせるということなのか。トリ肉を蒸し焼きしたタンドリーチキンやマトンを串焼きしたカバーブは、フォークとナイフでは食べにくい。山盛りのパサパサしたプラーオーを傍らのマサーラーやゴービーなどのカレー料理のタレに付けて食べるといかにもカレーライス風になるが、これもフォークでは食べにくい。やはり手で食べるのが一番のようだ。そんな場合、不浄の左手はテーブルの下に隠しておき、清潔な右手で食べるのがよいというが、習慣のない日本人は、つい両手で食べてしまう。
 すべてのインド料理に香辛料が入っている。初日は極めて美味しい。2日目はまあまあ、3日目はウップ、4日目は顔を背ける。私は典型的な日本人なのだ。

5.観光地
 国中至るところ遺跡だらけで見るべき所が多いが、公用旅券のため時間的余裕が無く、わずかにデリー(ニュー&オールド)市内にあるいくつかの名所と、アグラのタージマハールを見て回った。歴史のある国で、カースト制度を利用して築造したのか、重厚で巨大な遺跡ばかりであるが、じっくり見ることもできず、残念であった。
 デリーでは、奇妙な幾何学的建築が建ち並ぶジャンタル・マンタル、ムガール建築の基礎となったフマユーン廟、タージ・マハールを築いたムガール帝国5代目の王シャー・ジャハンの居城ラール・キラー(赤い砦)、1658年完成のインド最大のイスラム寺院ジャーマ・マスジットなどの遺跡のほか、マハトマ・ガンジーをダビに付した記念公園ラージ・ガート、大衆の市場であるいくつかのバザールを見て回った。寺院ではゲートを入ったところで靴を脱がされた。靴の番人が居て預かってくれるが、帰りには必ず1~2ルピーを取られた。裸足でゲートをくぐると、寺院の中庭はハトのフンがくまなく落ちていて、必死になって避けて歩くのだが、足の裏は何度か奇妙な感触を味わった。タージ・マハールは言葉で表現できないほど素晴らしかった。世界最大の大理石建築でシンメトリックな構造は、観光客のため息を誘う。
 観光地にミヤゲ物売りは付きものあるが、インドのミヤゲ物売りのしつこさにはほとほとうんざりした。手に一杯の装飾品を持って、こちらの行く手に立ちふさがり、これはどうだ、じゃこれはと次々と差し出す。やっと一人から逃れると次の物売りが立ちふさがり、これは、あれは、とやり出す。日本語で話しかけるヤツが多いのに驚く。「オイコラ、チョトマテ。ジュー(10)ルピー。タカイカ。カウカ。オイコラ」。…ホントに参った。

あとがき
 インドはホントに広大な国である。今回は国際集会の会期4日間の前後各1日ずつを含めた計6日間のインド滞在であったが、自由な時間があまりにもない。せっかくのインド出張であるのに、一般庶民の生活実態や文化を知るには十分な時間が無く「公用旅券」で出張することの各種制約が恨めしい。チャンスと金があれば、今度はのんびり行ってみたいと考えている。
プロフィール

Author:能登繁幸
「ちょっと斜にかまえたエッセイ集」の第1集、第2集、第3集、ならびに毎週発信の「新能登メール」を収納。

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