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Ⅱ 1,600字程度のエッセイ集

Ⅱ 1,600字程度のエッセイ集

資格のススメ                     (開土研月報1992.9月号)
等身大の機械                     (開土研月報1993.9月号)
近頃の発表論文を見て思うこと             (開土研月報1994.9月号)
ガイア仮説                      (開土研月報1995.9月号)
左のすそ野                      (開土研月報1996.7月号)
ルサンチマン               (コンサルタンツ北海道No.80、1996.11)
インフォームド・コンセント              (開土研月報1997.7月号)
上っ面の判断をする前に                (開土研月報1998.2月号)
アテンション仮説                   (開土研月報1998.5月号)
輝きのとき                      (開土研月報1999.3月号)
2000年の年頭所感                   (開土研月報2000.1月号)
活字と映像の効果的活用術               (開土研月報2001.12月号)
価値観の崩壊                             (未発表)

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価値観の崩壊

 現代は価値観が多様化しているという。私にいわせれば、単に価値観が崩壊しただけ、と思うがどうだろうか。民主主義が成熟し、自由をはき違えた結果が価値観の崩壊となったのではないのか。帝国主義、軍国主義の国、独裁国家では価値観の多様化なんてあり得ない。すぐ近くの国を見ろ。ほとんどの国民が洗脳され、チュチェ(主体)思想とかに向かってまっしぐら。大人から子供に至るまで「慈愛あふれるお父様、我らが○○様。マンセイ、マンセイ」とやっている。変なことをいうと死刑だ。
 日本はどうか。戦後のおかしな民主主義が定着して、法に触れさえしなければ、何をしても、何を言っても逮捕されない。すべて自由と平等。何事も均等に、差別無く、区別無く。小学校の学芸会の話を聞いて呆れる。主役のハズの桃太郎が10人もいるんだって。イヤ、主役を作らない学芸会にするのに苦労しているんだって。だから馬鹿な若者が増え出すのだ。

 先日、わが2番目の娘が「ピン留め」と言うのを、それは「ビン留め」が正しいのだと教えた。すると、イヤ、ピン留めでいいんだ、デパートの売り場にもそう書いてある、と反抗する。それはデパートの間違いだと言っても頑として納得しない。おまけに息子までが「ヘアピンカーブって言うから、ピン留めでいいんじゃないの」と来た。これで完全に頭に来た。すぐさま辞典を取り出して、何故「ビン留め」というかを説明した。鬢(ビン)とはすなわち髪のこと。それも、頭の左右の髪のこと。ピンは留め針、あるいは留めるという意味。したがってピン留めはおかしな言い方なのだ。これで参ったかと思いきや、今度は一番上の娘が「言葉なんて時代と共に変わるものよ。今はピン留めが定着してんじゃないの」という。馬鹿者!いつの世も正しいものは正しいのだ。間違いは間違いなのだ。

 そば屋でザルソバを注文。やがて「こちらザルソバになりまーす」と持ってきた。それで「いつごろザルソバになるんですか?」と聞いてやった。店員は「はぁ?」と怪訝な顔。単に「こちら、ザルソバでございます」と言えばいいのだ。喫茶店にて、咳をしながらコーヒーを運んできたウエイターに「オイッ、咳をしているじゃないか!」と苦情を言うと、「イエ、もう治りかけですから」。ラーメン屋にて、スープに親指を突っ込んでラーメンを持ってきた店員に「オイッ、指が入っているぞ!」と言えば「イエ、もう慣れましたから」。そんな問題じゃないんだろってんだ。レジで勘定を払うのに千円出せば「千円からお預かりします」という。「何を預かるの?」と聞いたら、店員はやっぱり「はぁ?」と怪訝な顔。「千円をお預かりし、その中から代金を差し引かせて頂きます」ということなんだろうなぁ。しかし、間違いは間違いなのだ。価値観の相違とは違うのだ。

 東京出張で山手線に乗ってびっくりした。高校生らしき若者数人が電車の床に車座にベッタリ座っている。まったく周りを気にしないで「オイマジカヨー、ダッセー、ギャハハハ」と大声で話し合っている。べたっと床に座って話し込んでいる馬鹿者が札幌の大通りの地下にもいる。ジベタリアンというらしい。あれはいったい何なのだ。汚いし、だらしないし、疲れ切った猿みたいなものだ。毅然たる態度の微塵もない。
 同じく東京の電車の中。これまた高校生らしいアベック、イヤ今はカップルというらしいが、ドアのところで抱き合い、ジッと目を見つめ合い、男の子は女の子の背中をなで回し、女の子はうっとりとした顔で、今にもキスをする寸前かのよう。周りの大人連中はドギマギ。困ったモンだという目でチラチラ盗み見。「何で人前でやるんだよ!恥を知れ恥を!!」と言いたいが、言えない悲しさ、悔しさ。女はイイよ、精神的に近眼なんだから(ショーペンハウエル、生涯独身を貫いた哲学者)。男がそれでどうする、と腹が立つ。だから、降りるときに、間違った振りをして、男の尻にカバンの角をイヤというほどぶつけてやることにしている。

 男らしさ、男の矜持なんて、もはや死んだのかも知れない。自由をはき違え、手前勝手な価値観で生きることが価値観の多様化というのか。あぁ、今日もまた腹が立つ一日になりそうだ。
(上記、喫茶店とラーメン屋の話は、どこかの新聞のコラム記事にあったと思う)

活字と映像の効果的活用術

 昔、まだ若かった頃、研究成果をまとめて論文を書いた。やっとタイガーの計算機が電子卓上計算機(といっても、今のノートパソコンより大きい!)に代わりつつある頃で、当然論文は手書きである。その論文を上司が赤ペンで真っ赤に添削する。また手書きで書き直す。また添削、また手書き、と何度か行き来してやっと論文が完成する。その論文が活字になったときには、完成品としての見栄えの良さにうっとりしたものだ。やがて自分が論文の添削をする立場になった頃、世はワープロの時代。上がってくる論文ははじめから活字で、図面も素晴らしくきれい。仕上がりが美しいものだから、完成度が高いかのような錯覚を受ける。活字であるというだけで、まるで最後通告されたかのようで、もはやそれが真実を物語るかのようで、添削するのにずいぶんと戸惑った記憶がある。しかし論文を読めば内容がお粗末で、結局は真っ赤に修正してやったという記憶もあるが。
 だから新聞に書いてあることなら、活字であるがために、それが事実、真実、と誰もが思う。ましてやテレビの映像効果は絶大である。昔、紅茶キノコというのがあった。塩マッサージ、リンゴダイエット、そして今ビール酵母らしい。ダイエットに効くとテレビで放映されれば世の主婦がそれに走る。ナタデココ、パンナコッタ、ティラミスがうまいと言われれば、それーっと走る。納豆が体にいい、ヒジキもいい、魚の目がどうのとなればすぐさま食卓に並んだりする。みのもんたがテレビで言ったのだから。テレビが嘘を言うはずがないのだから。
 そのテレビがさらに進歩して、映像ばかりか字幕スーパーも入るようになった。出演者の話が字幕になるばかりか、肝心なところでは字が大きくなったり、色が変わったり、躍ったりする。こちらはその字の動きにあわせて驚いたり、笑ったりすれば良いのだ。最初は煩わしいと思ったが、いつの間にか字幕が入るのが当然と思えてきた。喜怒哀楽を自ら考える必要もないから非常に便利、と思えてきた。
 札幌にほとんど車が見あたらない地下駐車場がある。道東にほとんど車が通らない高速道路がある。とレポーターが言いながらガランとした駐車場と高速道路の映像を流す。次いで地元住民に意見を求める。「あんなものは要らない」と住民が言い、同時に字幕が流れる。恣意的な情報なのだが、映像と字幕で、視聴者は無意識のうちに「自分の判断」かのように錯覚し、脳にそれらの事実が刷り込まれる。
 何とも油断のならない時代になったものだ。産業構造が重厚長大から軽薄短小に移ってから久しいが、人間までもが軽薄短小になってしまって、活字や映像を何の疑いもなく事実として、あるいは正解としてマに受けるヤカラが多くなった。マークシート方式に慣れた者には、何が正解か、だけが重要で、その背景、過程はどうでも良いのだ。もっとも、新聞やテレビという情報媒介自体に罪はないかも知れない。そこから出てくる情報を吟味しようとしない人間が問題なのだ。
 活字や映像はとりあえず単なる情報であって、それを吟味し、内容をチェックし、真実を自らの力で判断しなければならない。そのためには、情報の中身を分析するための基礎知識が必要だ。背景・過程を知る洞察力、真偽の判断を下すための考察力、さらには自ら下した判断の妥当性を評価できる良識(倫理)も身につける必要がある。今、科学技術は著しい進歩をとげ、この世のあらゆるものを改変できるほどのレベルに達しようとしている。しかし、善悪を判断すべき人間の精神文化がそれに追いつかない。分析、判断、評価などという面倒をさけて、言われたまま、観たまま、聞いたままを信じ、行動しようとする。そして気がつけば、世界の食糧・人口問題の解決のために密かにヒトが小型化され、凶悪犯罪防止のために脳が改造され、病気に罹らないようにDNAが操作され、ということになっているかも知れない(話が飛躍?!)。活字や映像に惑わされず、自分の感覚を研ぎ澄まし、しっかりと自己判断能力を養いましょう。
 ともあれ、ITの大発展によって、活字や映像の絶大なる情報効果はこの先も続く。これを見逃す手はない。我が研究所も研究成果を活字や映像で次々と発表するのがよい。図表はカラーをふんだんに取り入れたものがよい。写真を何枚も貼り付けるのがよい。文章はなるべく短いのがよい。活字はゴシックがよい。パワーポイントに字幕スーパーを入れよう。しかし、内容は濃いものでなければならない。何に役立つかを鮮明に打ち出さなければならない。さすれば、来るべき「評価」も楽勝となろう。
 ところで、芸能界では小学生までもがスターになったりする現象、何とかならないか。まるで学芸会だ。良識ある大人はどこへ行ったのだ。

2000年の年頭所感

 西暦2000年。20世紀最後の年。この「最後」というのがクセモノで、この世の終わりかのような気持ちにさせる。世紀末と聞けば、無意識のうちに、浮き足状態になってしまう。だが、西暦はキリスト紀元。キリストが生まれた年を第1年とする紀年法。それも6世紀のなかばに提案され、10世紀頃に一部の地域で使用され、一般に用いられるようになったのは15世紀以降だという。おまけによく調べてみたら、キリストの生誕は紀元前4年らしい。となると、西暦なんて、唯の記号にすぎない。
 世界には様々な紀元がある。皇帝の即位、王朝の起源、歴史上の事件などが紀元となっている。イスラム教では西暦622年、仏教国では釈迦仏滅の紀元前543年が紀元であり、日本では紀元前659年が神武紀元である。驚くべきは旧約聖書の開闢紀元。天地創造は紀元前5493年3月25日、アダムの創造は紀元前3761年10月6日だそうだ。これらの紀元から計算すれば、今年は世紀末でも最後でもない、普通の年になる。
 とはいえ、西暦2000年が、この現代の混沌から抜け出すための、一つの契機であることには間違いがない。過去の歴史は、隆盛と衰退、そして再生の繰り返しではあるが、効率性を追求してきた20世紀は、何事にもおいて加速度的に展開を果たした結果、世紀末において多くの問題が噴出してきた。いかなる問題も解決してきた人間の英知が、今試されようとしているかのようだ。
 安泰かに見える徳川300年の歴史も、いくつもの衰退と再生の繰り返しであった。江戸時代、当時の人口の何割にも当たる膨大な数の人々が「お蔭参り」と称して、奉公先を抜け出し、伊勢参りに出かけた。この現象が不思議とほぼ60~70年の周期で何度も生じたという。そろそろ関東に大地震が来るという予想がある。日本における大地震は60~70年周期といわれているからだ。お蔭参りのあとに、必ずのように大規模な自然災害が起こっているそうだ。
 お蔭参りにしろ地震にしろ、ストレスがたまりにたまってついには破壊に到るという点で共通である。現在の地球の爆発的とも言える人口増加も、いつかバランスが崩れ、著しい人口減を招くだろう。限られた地球という器の中で、人間に必要な環境が定められているはずだから。食料にしろ、酸素にしろ、人間が必要とするバランスというものがどこかにあるはずだから。
 開土研は、昭和12年(西暦1937年)の設置だから、今年で創立63年。長い歴史を持つ研究所、といえば聞こえはいいが、60年を越えたところに不安がある。創立60年を越えた途端に独立行政法人の話が出たのも自然の摂理かも知れない。今、衰退の時期というのではないが、隆盛と衰退、そして再生という歴史の輪廻なのかも知れない。今こそ再生の機会。新たな一歩を踏み出すときなのだろう。
 時代が変わっている。前の時代のパラダイム(思考の形)を捨てるときだ。社会の倫理、世界観、産官学の仕組み、全てにおいて今までの常識が変わりつつある。そんな中で、開土研の独自性を失わず、ねばり強く開土研の活路を探っていかなければならない。開土研の独自性とは何か。それは「寒地土木」である。これからの開土研は「寒地土木」という個性的なブランドをひっさげて、他の研究機関との差別化を図らねばならないと考えている。
 世紀末、混沌の時代、70年周期の輪廻、そして独法化。新しい体制、新しい世界を生むため、今まさに世の中全体が産みの苦しみの最中である。我が開発土木研究所の役割、北海道のあり方、日本、そして地球の将来を、この西暦2000年という節目にしっかり、じっくり考えましょう。

輝きのとき

 古来、和洋問わず、「馬鹿と天才は紙一重」という。ホントかどうか、本気になって研究した人がいる。ドイツの精神科医、E.クレッチュマーである。結論からいえば、天才の多くは精神病質であり、普通の精神病者の行動と類似したところが多いということである。
 ゲーテはいつも鬱状態で、7年ごとの躁状態の時に優れた作品を残した。ニーチェは梅毒性脳疾患の発病直前に天才的能力を発揮した。モーターで有名なディーゼルは、鬱病で水死した。ロベスピエールは分裂病質と神経質の変人であった。
 天才といわれる研究者も同様で、多くの場合、精神医学的に言えば「過価観念」にとりつかれているという。この聞き慣れない過価観念とは、ある一つの先入的思考がその人の観念界を熱情的に占領し、もはや是正が不可能な状態にあることをいう。細菌学上の偉大な発見者パスツールは「実験者の錯覚は彼の強みの一部をなすものだ。彼の指針となるものはその先入観である」と言った。思索力が強く、過価観念にとらわれた人を、病的にとらえれば、偏執病(パラノイア)者と呼ぶことになる。一つの考えに没頭し、さらにそれを深く追求するというものだ。
 ツェッペリンは、飛行船作りに没頭し、莫大な費用で飛行船を作っては失い、失っては作った。周囲の人々は、時期尚早の不可能事と見ており、精神病院に収容すべきだとさえ考えた。それが成功するや、一躍大発明家ともてはやされた。世に、成功を克ち得た発明家と、失敗した発明家とがある。人は後者を偏執病者と呼ぶのである。
 過価観念にとらわれた天才的研究者は、どんな些細な日常の出来事でも、ある偏った思考でとらえようとする。長い間一つの思考に専念していた発明家が、ちょっとした日常経験から暗示を得て、偉大な天才的な真理を発見する例は古来希ではない。ガリレイは、寺院の燈火の揺れるのを見て、振り子の法則を考えついた。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則を考えた。マイアーは暴風雨のあとの水温の上昇と、熱帯地方の人の静脈血が鮮紅色であったことからエネルギー保存の法則を見いだした(というが、その因果関係がさっぱり分からん)。
 かくして天才は何がしかの精神病理的な素質をもつことが明らかとなったが、されど「天才=狂気」というのでもない。むしろ「天才は人類の希有にして極端なる変種」というのである。天才が創造的能力を発揮するためには、精神病理学的部分が必要であり、潜在していた高い才能に、ある種の精神病理的な要素がぶつかったとき、天才が発生する。
 凡人も努力によっては「秀才」にもなれる。しかし、潜在する高い才能と精神病理的なところを併せ持たない凡人は、決して天才にはなれない。ところが、クレッチュマーは一つの希望を示す。「どんな人でも、その若き日には、全体的な精神態度において新鮮さと興奮性とを多く保っている。後には全く月並みとなり果てるような人々さえも、その青春時代には、わずかながら独創的な考えを始めとして、音楽的、詩的、雄弁的な才能や才気などを示すのである。しかしこれらすべての輝きは、25歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。そののちに来るものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。」
 人間25歳は「お肌の曲がり角」と同時に「すべての輝きの曲がり角」でもあるらしい。しからば、25歳を越えた人間に救いはないのか。いや、さらにクレッチュマーは言う。「優れた精神的素質の発現を、生涯の後半に至るまで、完全に抑制し妨害することも、その後に至り突如として強烈な勢いで華々しく開花させることも、また生涯の終わりにいたって再び萎縮させることもできる。」
 青春真っ盛りの若き研究者よ、今こそ才能を存分に発揮するときだ。まだ華開く輝きをもたない人よ、己の素質を抑制せずに解き放て。凡人とて一度は天才的とも思える時期があるのだから。
(クレッチュマー著「天才の心理学」岩波文庫を貸してくれた本局某課長に感謝する。)
プロフィール

Author:能登繁幸
「ちょっと斜にかまえたエッセイ集」の第1集、第2集、第3集、ならびに毎週発信の「新能登メール」を収納。

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